世界の終わり

誰であろうと一度くらい、世界の終わりについて考えたことがあるのではないだろうか。あのピエロがいるバンドのことではなく、文字通りの「世界の終わり」である。

毎年のように世界が滅ぶという予言を聞いている気がするけれど、みんな世界滅亡が大好きなのか。はっきり言おう。僕もそういう話が大好きだ。

予言であるとか、陰謀論的なものを本気で信じているわけではない。でも、そういう話を聞くとワクワクしてしまう。世界が滅ぶというのに不謹慎だ!とか、子供じみた妄想を垂れ流すなこのサイコ野郎とか言われるかもしれないので、あまり表には出さない。

ゾンビ映画が見たくなるのは、そういう欲望が満たされるというのが大きいのかもしれない。僕は車の免許をマニュアルで取った。その理由は、「ゾンビが街に溢れて逃げなきゃいけなくなった時に、マニュアル車でも運転できるように」と言いたかったからだ。言いたかったから、ここで言っておいた。

 

「世界の終わり」と言っても、人によって頭の中に浮かぶものは違うはずだ。想定されるパターンは大きく分けて二つ、そこに人間が存在するか否か、である。

人間が存在するパターンとは、核戦争によって文明が吹き飛んじゃったけどまだ生存者がいましたみたいなやつとか、パンデミックとか起こったりするゾンビ映画でよくあるやつだ。

人間が存在しないパターンは、ドラえもん地球破壊爆弾使うとか、人工知能が人類を抹殺するとかだ。よく考えたらこれ両方同じ気がするけど。

要するに、

この二つのパターンの違いというのは、「世界の終わり」をどう定義するか?ということだと思う。

現在の文明が滅べば「世界の終わり」なのか、人類がいなくなれば「世界の終わり」なのか、地球が爆発したら「世界の終わり」なのか。

どこまでを「世界の終わり」と考えるのか、という話かもしれない。

 

いつだったか、僕が昼間に寝て深夜に目覚めたら、電気をつけて寝たはずなのに部屋が真っ暗になっていた。手元のスマホも電池が切れているみたいで、動いていない。

一瞬、何が起こったんだ、と思ってすぐに気がついた。あ、電気代払ってないから電気止められたんだな、と。

真っ暗闇の中で、電気代の支払い書を探してコンビニに向かった。深夜だったので、車も通っておらず、人の気配も全くしない。

何だか「世界の終わり」が訪れたようだった。

コンビニで電気代を払って、ついでに蝋燭を買った。家に戻ってきて、蝋燭に火をつけて、ぼーっとその火を眺めながら、その時に思った。

もし、世界中の機械という機械がすべて一斉に壊れたら、どうなるんだろう、と。電気が使えなくなって、様々な発電所が制御不能になって大変なことになるのではないか。パソコンやスマホも使えず、通信手段もなくて、政府や警察もうまく機能せず、すぐに混乱が起こるはずだ。車やバイクや電車も使えず移動もままならない。食べ物も流通しなくなるし、手元にあるものはすぐに腐っていくだろう。コンビニやスーパーにあるもので、どれくらい持つのだろうか?その奪い合いが起きて、マッドマックスみたいになってしまうのか。いや、人類だって馬鹿じゃないはずだ、どうにかして復旧させられるんじゃないか。でも、うーん…。世界規模で考えても仕方がない。自分だったらどうするだろう?まずは身近にいる信用できる人を探しに出かけるかなぁ。

そんな益体もないことを考えた。でも、これを物語にできたら面白そうだなと思った。

数日後、友達にこの前こんなこと考えたんだけど、と話をした。すると、その友達が「矢口史靖が来年、そういう映画をやるみたいだよ」と言った。話を聞くと、大学院の入試で矢口史靖の次回作のシナリオに関する問題が出たということだった。

 僕は愕然として、まるで「世界の終わり」が訪れたかのように目の前が真っ暗になった。