おとしものと夕暮れの櫛
ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
『なよたけ拾遺』永井陽子
池袋駅の目の前にあるバス停の横で、櫛を拾った。見るからに安物のそれは、誰にも拾われることなく、ずっと前からそこに存在していたように思われた。
池袋の雑踏に紛れて、西口公園に向かって歩く。彼女はいつものように、長い髪をなびかせて、噴水の前に立っていた。
「遅い、寒い」
「ごめん、寄り道してたら遅れた」
「寄り道って何してたの」
「これ、プレゼント」
そう言って、先ほど拾った櫛を彼女の方に見せると、あさひは「なにそれ」と怪訝そうな顔をした。
「そこで拾った」
明らかに不機嫌そうな顔で、あさひが私の方を睨んでいた。
「いらない?」
「…ゆうひ、この際だから言っておくけど、その辺に落ちてるものを拾って持ってくのやめた方がいいよ」
「なんで」
「だって、一応落し物だよ?それに誰が使ってたか分かんないし、汚いよ」
「別に使うわけでもないし、持っていくものはちゃんと選んでるよ」
私が拾って集めるのは、限りなくゴミに近い落し物と決めている。明らかに持ち主も探していない、落としたというより、捨てたように見えるような、ずっとそこに放置されたままであろうものを集めるのが好きだ。その持ち主がどうしてそれをここに置き去りにしたのか想像を膨らませるのが楽しいのだ。
私はいつも俯いて歩いているせいか、昔からよく落し物を見つけることができた。あさひと仲良くなったのも彼女のヘアピンを拾ったことがきっかけだった。
あさひのヘアピンは高校の裏にある畑に落ちていた。私は人通りの少ない朝早くの時間に、その畑のある裏の道を通って学校に通っていた。
高校3年の春、私はその畑で朝焼けに照らされ、輝いているものを見つけた。それには、桜の飾りがついていて、まだ綺麗なままだった。
このヘアピンをどうしようか迷っていると、後ろから「なにしてるの?」と声をかけられた。
あさひだった。
私はびっくりして、畑に突っ立って何も言えずにいると、あさひは「あっ!」と驚いた声をあげ、近づいて私の手を取った。
「これ、わたしの」
「…えっ?」
「探してたの」
「…あ、うん」
彼女のことは知っていたけれど、喋ったのはその時が初めてだった。あさひは明るい性格で誰とでも仲が良かった。私とは、何もかもが正反対だった。名前も性格も見た目も。
でも、私たちはどこか根底の部分が似ていて、すぐに仲良くなれた。まるで、正反対でもどこか似ている夕焼けと朝焼けのように。
お互いに志望校が同じだったことも大きかった。地元を出て、一緒に立教大学に入学してからは、私たちはどこへ行くにも一緒だった。
今日でテストが終わり、明日からは春休みに入ろうとしていた。
「ねえ、ここ寒いし、どっか暖かいとこ行こうよ」
「暖かいとこってどこ。喫茶店?」
「日が当たるとこ」
「この辺にそんな場所ないでしょ、ビルに囲まれてるんだから」
もう日は傾き始め、ビルに囲まれた西口公園からは太陽はどこにも見えなかった。
「じゃあ、付いてきてよ」
そう言って彼女は駅に向かって歩き始め、私は渋々それに続いた。
池袋駅の雑踏を抜け、あさひは西武池袋線の改札も抜けていった。
「ちょっと、どこ行くの?」
「だから、日が当たるとこだってば」
西武池袋線のホームは電車を待つ人々で溢れていた。あさひはその人々の間を縫って、ホームの1番奥までたどり着くと、「ほら」と線路が続く方向を指差した。
そこには、燃えるような夕陽が世界を埋め尽くしていた。
「ここは夕陽が綺麗に見えるんだよ」
そう言って、あさひは嬉しそうに笑っていた。私は陽射しが眩しくなって俯いていると、あさひが「さっきのプレゼント、ちょっと貸して」と言ってきた。
私はコートのポケットから、櫛を取り出してあさひに手渡すと、彼女は夕陽に向かって半透明の櫛をかざした。
夕暮れに滲んで輪郭がぼやけ、彼女が世界と一つになったように見えた。「まるで、世界中が夕焼けみたい」と彼女が小さく呟いたような気がした。
私はこの櫛はやっぱり元の場所に戻しておこうと決めた。