おそうじとおとしもの

道を歩いていて、落し物を拾ったことが今まで一度もない。もしかしたら、忘れているだけで、拾ったことあるのかもしれないが、全く記憶にない。

だから、落し物を拾ってみたいという謎の欲望がある。落し物を拾うことで何かが起きそうな気がするのは、僕の考えすぎだろうか。

道を歩きながら、意識して道に何か落ちていないか探してみても、なかなか見つからない。落し物どころか、ゴミや落ち葉すらもほとんどない。誰かが掃除してくれているはずだけど、普段それを意識することはない。

昔、友人が道端にポイ捨てをしているのを見て「ポイ捨てすんなよ」と軽く注意したら、「ポイ捨てをするのは、ボランティアで掃除をしているおじいちゃんに仕事をあげてるんだよ」と言われた。

「いや、おまえがポイ捨てをやめれば、おじいちゃんの仕事が減るだろ」

「おじいちゃんは、好きでやってるんだから良いんだよ。それがおじいちゃんの生き甲斐だから」

お前におじいちゃんの何がわかるんだ、とは思ったけど、それで世の中のバランスが成り立っているような気もしたので、それ以上は何も言わなかった。

確かに、道はいつも綺麗だし、ボランティアで掃除をしているおじいちゃんもたまに見かける。

道に何も落ちていないのは、どこかのおじいちゃんが掃除をしているからで、僕以外の誰かが落し物を拾っているからなのだろうか。

 

僕はよく物を落とす。どれくらい頻繁に落とすかというと、落し物を探しに戻って、無事に見つけたと思ったら、そこでまた別のものを落とすくらいの頻度だ。最高で3回それを繰り返したことがある。そんなことがあってから、なるべく物を持たないで外出するようにしている。

でも、有難いことに落としたものは、ほとんど手元に戻ってきている。世の中が親切な人ばかりで良かったと思う。

それでも、流石に茶封筒に入れた五万円だけは、手元に戻ってこなかった。その五万円はバイト先の先輩から原付を譲って貰うために用意したものだった。

あの五万円は何に使われたのだろうか。五万円があれば、結構何でも買えるし、それなりに豪遊できるんじゃなかろうか。パチンコ屋の前あたりで落としたような気がするので、恐らくパチンコに使われただろうが、せめて有意義な使われ方をされたことを祈るばかりだ。

古典落語の演目に「芝浜」というものがある。「芝浜」のように、あの五万円を拾った人が「また夢になるといけねえ」と言ってくれていたら、なんて思う。