はじまりとおひっこし

先日、引っ越しをした。5年ほど住んでいた街から離れ、電車で1時間くらいの距離の場所に引っ越すことになった。

ちょうど昨日、退去の立会いが終わって、長い間お世話になったこの街にも来る用事がなくなった。

名残惜しくて、1時間ほど最寄の駅の周辺をブラブラしていたら、街並みから様々な思い出が込み上げてきて、なんだか切ない気持ちになった。

仕様がないので、完全におっさんの気分で営業しているたこ焼き屋が、昨日は運良くやっていたので、そこでたこ焼きを買って、駅前の噴水の前にあるベンチに座って、チルりながらたこ焼きを食べた。

紅生姜がたくさん入ってたり、焼き加減が違ったり、ひとつひとつのたこ焼きの味の偏りが凄くて、たこ焼きまで気分なのか、というある意味一貫した姿勢に涙が出そうだった。

 

高校を卒業してから、約5年間。月並みだけど、長いようで短かったと思う。色々とあったとも言えるし、何もなかったような気もする。

そんなことを考えながら、「でも地元からここに引っ越してくる時は、こんなに切ない気持ちにはならなかったな」ということに気づいた。

僕は地元が好きではない。どちらかというと嫌いである。何故なら、頭のおかしい人が沢山いるからである。意味不明の犯罪もやたらと起きていて、正直うんざりした気持ちになる。

僕が中学生の時、下校している最中にセーラームーンの格好をしたおっさんに遭遇した。そのおっさんは、公園にある薄暗いトンネルを抜けた先にあるベンチの前に立って、こちらに背を向け、公園の池を眺めていた。明らかに履いているスカートの丈が足りておらず、半分ケツが丸出しだった。

そのおっさんは僕の地元では、「セーラームーンおじさん」という愛称で親しまれており、100%の純度の変質者を許容しているこの街は、ちょっとおかしいとその時から思っていた。

地元を離れ引っ越してからも、やたらと地元での犯罪の全国ニュースを聞く。コンビニの立てこもり事件、少年による殺人事件、中学生の覚せい剤使用などなど、枚挙に暇がない。

とはいえ、人生の半分以上を過ごした街であり、思い出は沢山あるはずなのに、何故こんなにも、地元を離れることに抵抗がなかったのか。

 

それは多分「いつか帰るところ」が、そこに存在しているように思えるからじゃないかと思う。自分がいてもいいと思える場所があるというのは、有難いことだし、そういう意味で言えば、僕は地元に甘えていたような気がする。いつでも帰れると心のどこかで思っていたんじゃないか。

今回の引っ越しは距離でいえば電車で1時間くらいの距離でしかなくて、行こうと思えばいつでも行けるかもしれないけど、出不精の自分にとっては何かの機会がなければ、地元よりも遠く思える。

この街に来てからすぐにアルバイトを始めた映画館も、改装されて、よく知っている場所であるはずなのに、まるで知らない他人のようで、そこに自分の居場所や思い出が存在しないようで、滅茶苦茶寂しい思いをした。

だから、たこ焼きを食べながら、もうこの街には「いつか帰るところ」と呼べるような場所はなくて、もうここに来ることはないかもしれないと思うと、余計に哀しくなった。

 

最後に何か映画を観て帰ろうかとも思ったけど、お金がないのでやめた。